名付け次第で吉祥文様。(´з`)
この分銅というのは「宝尽し」の文様にも含まれる縁起物です。昔実際に天秤にかけて使われる分銅は、普通は鉄か真鍮で作られていたようですが、中には時の天下人が金や銀を分銅のかたちに鋳造して作っておいて、戦(いくさ)や火事などの非常の時に備えていた物もあったそうで、そこから貯金や貯蓄を表すようになったとも言われます。宝物として捉えられるのも、そういったところからきているのでしょう。
分銅のかたちは江戸時代の両替商の看板代わりにも使われており、現在では地図記号の銀行のマークになっています。これぞ歴史ですね。
同じ形がみっちり連続している模様のことを、日本の文様では「〜つなぎ」という名前で呼ぶのですが、この「分銅繋ぎ」もそのひとつです。分銅繋ぎの文様は、よくよく見れば波線が交差してできあがる幾何学模様、実際に分銅を並べて書き写した文様というよりは、波線の交差した幾何学模様に分銅の形を見出して、
「このかたち、分銅がずーっと繋がってるみたいちゃうかー?」
「ほんまやな。ほな名前は"分銅つなぎ"やな」
…ってな調子で大昔の誰かが名付けたんでしょうね。縁起も良いってことで。
このへんが日本人の「げんかつぎ」好きなところですか。(´ー`)
たかだか「おもり」が宝物?
素材が金や銀でできているからと言っても、それだけでそんなに言うほど縁起がええかなぁ…と思って少し調べてみると、その金銀で作った分銅には、「小分銅」「大分銅」という2種類の大きさがあったそうで、小さい方の「小分銅」は重さ375g、だいたい350mlの缶ジュース1本分といったところでしょうか。さて問題は大きいほう。この「大分銅」に至っては、ナナナナなんと165kgもあったという驚愕の事実がっ!( ̄□ ̄;)
文献によれば豊臣秀吉は1591年と1597年に2回、この金の大分銅を作らせたそうで、徳川家康は1604年に銀の大分銅を、江戸幕府としては1659年、1793年、1842年の3回、金銀の大分銅を作ったそうです。徳川家康の遺産に関する史料によれば、その遺産には金の「小分銅」100個入りの箱が41箱含まれていたとか… ってことは全部で4100個も!?
こんなスゴい代物が世の中にあるなんて話を聞いたら「分銅=宝物」のイメージにもすんなり納得、そりゃあもう縁起も良いですわ。(´з`)
その「小分銅」に関しては、日本銀行をはじめ金融機関などが所蔵しているものも現存するのですが、「大分銅」の実物は、なんとも惜しいことにひとつもないそうです。残念っ!
しかし、もしもこの「大分銅」が日本のどこかに眠っているとしたら…
うーん。僕も埋蔵金探ししよかなぁ。(^ヮ^;)ゞ